تسجيل الدخولセドリックは机の上へ小さな紙片を三枚置いた。 それぞれに、簡単な日取りとルートが記されている。 あまりに手際がよくて、リリアーナは一瞬だけ呆れてしまう。「……随分慣れているのね」 「慣れたくはなかった」 「そうでしょうね」 「だが必要だ」 必要。 その言葉に、前よりは少しだけ違う温度を感じる。 以前の彼は、その一言で全てを片づけていた。 今の彼は、“必要だから”と口にしながらも、それだけでは自分が納得しないことを分かっている顔をしている。「私がやることは」 「今夜の夜会で、私と並ぶ」 「……」 「私が耳打ちするふりをした時、少しだけ表情を変えてくれ」 「表情?」 「どの婦人や使用人がそれを見ているかを、こちらで拾う」 「それだけ?」 「それだけではない。帰り際、君は一人の婦人にだけ、三日後の早朝、と聞こえるように言う」 「誰に」 「ジュリアンヌ夫人だ」 「……お義母様寄りの」 「そうだ」 「もう一つは?」 「北門側の話は、母に」 「あなた、自分のお母様を餌にするの」 「今さらだ」 静かな声音だった。だがその中にある冷たさは本物だ。 母を疑いたいわけではない。 けれど、信じきることもできないのだろう。 前世で何が起きたのかを知っている以上、その冷たさは理解できる。理解できてしまうことが、また少し痛い。「夜明け前の出立は?」 「私が、あえて護衛頭にだけ言う」 「あなたが」 「ああ」 リリアーナはしばらく黙った。 共同作戦。 餌。 夜会。 同じ夢を見る人と、同じ敵を炙り出すために並んで立つ。 前世の自分が聞いたら、きっと信じない。 でも、今の自分にはもう、完全に拒むこともできなかった。 あの襲撃は、自分を狙った。 次があるかもしれない。 その前に内通者を見つけられるなら、やるべきなのだろう。 侯爵家のためではなく、自分が生き延びるために。「分かったわ」 やがて、リリアーナはそう言った。「やる」 「……いいのか」 「よくはないわ」 少しだけ皮肉を込めて返す。「でも、ここまで来て“怖いから嫌”なんて言っていられないもの」 「怖いのか」 「怖いに決まってるでしょう」 思わずそう言うと、セドリックの目が少しだけ動いた。 驚いたのではな
その提案を、リリアーナは最初、冗談かと思った。「関係修復したように見せる?」 伯爵家の小さな応接間は、午後の薄い光で静かに満たされていた。春は近いはずなのに、今日の空はまだ冬の名残を引きずっていて、窓の外の庭木もどこか色を失ったように見える。暖炉の火は小さく、消えきらない程度にくすぶっているだけだった。火の匂いと、紅茶の湯気、それに窓辺へ置かれた白い花のごく薄い香りが、部屋の中で静かに混ざっている。 その静けさの中で、セドリックの提案だけが妙に浮いて聞こえた。「表面上だけだ」 彼はいつものように整った顔で言う。けれどその目だけは、ここ数日の彼らしい、少しも楽観していない色をしていた。「先日の襲撃は早すぎた」 「ええ」 「前世よりも」 「……そうね」 その確認を、今ではもう二人とも避けない。 前世。 同じ夢。 同じ悪夢。 同じ死。 その言葉を共有しているという事実が、まだ時々現実感を失わせる。けれど、共有しているからこそ、今は話が早い部分もある。あの襲撃が前世と違っていたこと。時期も、手口も、狙いの絞り方も。偶然では片付かないと、もう二人とも知っていた。「侯爵家の内側に、まだ誰かいる」 「……あなたは、前からそう言っていたわね」 「確信に近い」 「伯爵家だけじゃなく」 「ああ。伯爵家だけなら、あの早さにはならない」 リリアーナは膝の上で指を組んだ。手袋越しでも、自分の指先が少し冷えていると分かる。襲撃の記憶はまだ新しい。荷車の不自然な位置、馬のいななき、空気を裂く矢の音、そして誰より早く駆けつけたセドリックの声。そのどれもが、まだ耳の奥へ残っていた。「だから、表面を変える必要がある」 セドリックが低く言う。「敵が見ているものを」 「私たちの関係を?」 「そうだ」 あまりにまっすぐな言い方で、リリアーナは小さく息を止めた。 私たちの関係。 それが今、どんな形なのか、自分でもうまく定義できない。拒絶した。婚約は断った。侯爵夫人にはならないと、はっきり言った。それでも彼を完全な他人として切り捨てることもできず、同じ悪夢を知ってしまった者同士として、苦しい保留のまま繋がっている。 そんな曖昧で、痛くて、少しも美しくない関係を、今度は人前で「修復した婚約者同士」のように見せる。 滑稽
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。 愛がある。 そう、もうそれを完全には否定できないところまで来てしまった。 彼が最初から愛していたと言ったこと。 それが嘘ではないと、今はもう分かっている。 だからこそ、余計に厄介なのだ。 もし彼を憎むだけで済んでいたなら、どれほど楽だっただろう。 セドリックは低く言った。「私は」 「分かってる」 「何を」 「今度こそ違う愛し方をしたいんでしょう」 「……」 「沈黙じゃなく、言葉で」 「……ああ」 「でもね」 リリアーナは、そこでほんの少しだけ視線を落とした。 池の水面が見える。 白い空を映して、どこまでも曖昧な色だ。「私は、あなたを完全な他人としても見ていないの」 その言葉は、自分でも驚くほど静かに出た。 セドリックが動く。 驚いたのか、痛んだのか、その両方か。 でも今度は、リリアーナのほうが視線を逸らさなかった。「他人だったら、もっと簡単に拒めたわ」 「……」 「知らなかったら、もっと冷たくできた」 「……」 「でも、知ってしまったから」 胸の奥がじくじくと痛む。 怒りと、悲しみと、どうしようもない情が、全部混ざった痛み。「あなたを憎みたいのに」 「……」 「知ってしまったから、憎みきれない」 それは、たぶん今の自分に言える、最も正直な言葉だった。 愛しているとは言えない。 許したとも言えない。 やり直せるとも思わない。 でも、冷たいだけの男として切り捨てることも、もうできない。 その宙づりの苦しさを、今やっと言葉にできた。 セドリックはしばらく何も言わなかった。 言葉がないのではない。 たぶん、今の言葉以上に、自分へ正確に届いたものがなかったのだろう。 やがて、低く落ちる。「それでも」 「ええ」 「私は、諦めきれない」 「そうでしょうね」 「……」 「でも、婚約は無理よ」 きっぱりと言う。 ここだけは、曖昧にしたくなかった。「そこを曖昧にしたら、私はまた流される」 「……」 「苦しい保留ならできるかもしれない」 「……」 「でも、侯爵夫人にはならない」 セドリックの喉が動く。 彼は痛みを飲み込む時、そこが少しだけ目立つ。 それを知ってしまったことにも、また少し
「応接間ではなく」 「え?」 「庭の東屋にして」 言ってから、少しだけ息を吐いた。 侯爵邸の中の部屋は、どうしても前世の空気を呼び込みすぎる。 沈黙の食堂。 白い寝室。 冷えた廊下。 整いすぎた客間。 どこもかしこも、思い出が静かすぎて息が詰まる。 外のほうがいい。 たとえまだ春の冷えが残っていても。 風があって、空が見える場所のほうが、たぶん今はましだ。「かしこまりました」 エマが小さく頷く。 そのまま彼女は部屋の中のカーテンを少し開けた。 白い光が広がり、窓辺に活けられた淡い花がかすかに揺れる。 昨夜まではその光すら痛かったのに、今日はちゃんと光として見えた。 * 昼前、東庭の東屋にはまだ冷たい風が通っていた。 屋敷の裏手にある小さな庭は、社交用に見せる表庭ほど派手ではない。低木と、季節の草花、それに石造りの細い小道。奥には小さな池があり、春先の薄い空を鈍く映している。東屋の屋根へは白い蔓がまだ葉をつけきらず、骨組みだけが繊細な影を落としていた。 椅子と小卓が置かれ、暖を取るための小さな炭火鉢が用意されている。エマが念入りに敷物を整え、主人の膝へ掛けるための厚手のショールも持ってきてくれた。「冷えたらすぐお戻りください」 「ええ」 「本当に」 「大丈夫よ」 「侯爵様がお相手だからといって、無理にお顔色を保たなくていいのですよ」 「……そうね」 その一言に、少しだけ笑ってしまう。 侯爵様が相手だから、ではない。 むしろ相手が彼だからこそ、顔色を保ちたくなくなる。 怒りたいし、泣きたくもなる。 そして、そのどちらもきっと見られてしまう。 セドリックは時間ぴったりに来た。 黒に近い濃紺の上着。風を避けるためか、襟元はきっちり留められている。だが今日の彼は、いつもよりほんの少しだけ整いが甘く見えた。髪の一筋が、額の近くでわずかに乱れている。たったそれだけのことなのに、昨夜からほとんど眠っていないのだろうと分かった。 リリアーナは立たなかった。 座ったまま、彼が近づいてくるのを見る。 セドリックも無理に手を取ろうとはしない。 東屋の入口で一度止まり、軽く会釈してから中へ入ってくる。 その慎重さが、昔にはなかったものだと知っている。 昔なら、こういう
エヴェルシア伯爵家を切り捨てると決めた翌日、リリアーナは驚くほど静かに目を覚ました。 泣き疲れた朝の重さも、怒鳴ったあとの空虚さもなかったわけではない。胸の奥には、まだ鈍い痛みが残っている。だが、その痛みは昨日までとは少し違っていた。曖昧な苦しさではなく、形のある痛みだ。家族だと思っていたものが、最初からそうではなかったと知ってしまったあとに残る、静かな傷。 窓の外は白い朝だった。雲はまだ多いが、薄い光は確かに差している。庭木の先には、小さな芽がいくつも見えた。春は遅い。遅いけれど、止まってはいない。 寝台の上で身を起こし、リリアーナはしばらくその光を見ていた。 伯爵家の本性。 父の書いた走り書き。 継母の手紙。 商会とのやり取り。 それらを胸の中でもう一度なぞってみても、気持ちは揺らがなかった。 自分は売られていた。 前世でも、今世でも。 娘の幸せという柔らかな布を被せられていたけれど、中身は金と体面だけだった。 そう分かってしまえば、逆に迷いは消える。 切るべきものを切る。 離れるべき場所から離れる。 それだけだ。 でも、もう一つだけ、切れないものが残っている。 セドリック。 その名を心の中で呼ぶだけで、胸の奥が少しだけざわめく。 前なら、ただ冷えるだけだった。 今は違う。 怒りもある。 悲しみもある。 そして、それだけでは足りないと知ってしまった苦しさがある。 前世で最初から愛していた。 守るための沈黙だった。 正しい判断と正しい愛し方は別だった。 そう言われて、許せるわけではない。 けれど、知ってしまった以上、昔みたいに「冷たいだけの男」とも言い切れない。 それが一番厄介だった。「お嬢様」 エマがそっと入ってくる。 盆の上には朝のお茶と、小さな白い封筒があった。 リリアーナはその封筒を見た瞬間、妙な予感を覚えた。 伯爵家の紋章ではない。 母方の家の印でもない。 だが、白い紙へ押された封蝋の形を見れば分かる。 ヴァレンティア侯爵家。「……また?」 「はい」 エマの声音は慎重だった。 たぶん、昨日のことを知っているからだろう。伯爵家の本性を突きつけ、父と継母へ決別のような言葉を吐いた娘に、今日はまた侯爵家から手紙が来る。普通なら、心
ゆっくりと、噛みしめるように言う。 まるで、自分でも今ようやく本当の意味で理解したことを、言葉に乗せているみたいに。 リリアーナはその言葉を、しばらく胸の中で反芻した。 正しい判断。 正しい愛し方。 前世の彼は、たぶん前者しか見ていなかったのだろう。 家を守る。 敵を増やさない。 感情を見せない。 妻を表向きの弱点にしない。 その全部は、侯爵としては理にかなっていたのかもしれない。 でも、妻である自分は人間だった。 体面では生きられない。 必要な敬意だけで満たされるわけでもない。 熱を出した朝に欲しいのは薬だけではなく、そこにいてくれる気配だった。 夜会のあとに欲しいのは、完璧な護衛ではなく、「大丈夫か」の一言だった。 その違いを、ようやく彼は理解したのだ。 遅すぎる。 どうしようもなく。 でも、理解したこと自体は嘘ではないと分かる。「今さらね」 ぽつりと呟く。 その一言の中に、責める気持ちも、諦めも、そして少しだけ切なさも混じる。「ああ」 「今さら、そんなこと言われても」 「分かっている」 「私は前の私を、もう取り戻せない」 「……」 「あの頃の私は、あなたが庇ってくれているなんて知らなかった」 「……」 「敵がいることも、家の中が腐っていることも」 「……」 「ただ、愛されていないと思っていた」 「……」 「それが、私の現実だったの」 セドリックの喉が小さく動く。 それが苦しいのだろう。 でも、苦しいだけでは足りない。 ちゃんと見てほしい。 自分がどんな現実を生きていたかを。「私は、あなたの“正しい判断”の外側で、ずっと一人だった」 「……ああ」 「それを、あなたは守るためだと思っていた」 「……」 「ならやっぱり、ひどい人よ」 そう言うと、今度はセドリックがほんのわずかに口元を歪めた。笑ったわけではない。苦く、自嘲するような、ほとんど笑いにすらならない動きだった。「否定できない」 「否定してほしいわけじゃないわ」 「……」 「ただ、分かってほしいだけ」 「何を」 「理屈が正しくても」 「……」 「私は救われなかったってことを」 その一言に、彼は深く頷いた。 前世なら、その頷きも見えなかっただろう。 見ていても
最初に戻ってきたのは、痛みではなく、冷たさだった。 骨の奥へ、針のように細く、しかし容赦なく差し込んでくる冬の冷たさ。肌の表面ではなく、血の流れそのものが凍っていくような冷えだった。指先はとうに感覚を失っていたはずなのに、なぜか唇だけがひどく寒かった。息を吸おうとしても胸がひしゃげたように動かず、喉の奥では鉄の味がした。鼻先を掠めていくのは、夜気に濡れた石畳の匂いと、花壇の土の湿った匂いと、そして、濃く、温かく、気持ちが悪いほど甘い、自分の血の匂い。 ああ、死ぬのだ。 その時のリリアーナは、驚くほど静かにそう思っていた。 怖くないわけではなかった。怖いに決まっている。まだ二十九だっ
リリアーナ・エヴェルシア年齢:20歳スタート身分:エヴェルシア伯爵家長女外見:蜂蜜色の長い金髪、柔らかな翡翠色の瞳。白い肌に華奢な体つき。儚げな美貌だが、目の奥には芯の強さが宿る。淡いピンクや生成りのドレスがよく似合う。性格:穏やかで礼儀正しいが、ただ耐えるだけの女性ではない。追い詰められるほど静かに覚悟を固めるタイプ。人の悪意にも鈍くはなく、見て見ぬふりをしてきただけ。長所:忍耐力、気配り、家政と帳簿の管理能力、薬草知識、社交の場での観察眼など。短所:一度情をかけた相手を簡単には切れない。自分の痛みを後回しにしやすい。セドリック・ヴァレンティア侯爵年齢:27歳スタート身分
部屋へ戻ってから、リリアーナは窓際に立ち尽くしていた。 外では風が少し強くなってきて、庭の若木が枝先を揺らしている。白い洗濯布がはためく音が、遠くで乾いた鳥の羽音と重なった。日差しは明るいのに、胸の中は晴れない。むしろ、時間が近づくほど息苦しさが増していく。 侯爵本人が来るかもしれない。 その事実が、想像以上に彼女を乱していた。 会いたくない。見たくない。声を聞いたら、きっと前世の記憶が一気に押し寄せる。 けれど、会わなければ何も分からない気もした。彼が本当に前世と同じなのか、それとも違うのか。最後に見た涙が、ただの死に際の錯覚ではなかったのか。 なぜ知りたいのだろう。 知っ
焼きたてのはずなのに、味がしない。むしろ、喉が拒む。飲み込むたびに胸が詰まる。 父は新聞を畳み、ようやく本題へ移った。「本日、ヴァレンティア侯爵家から使者が来る。調印前の最終確認だ。侯爵ご本人が同行される可能性もある」 「ご本人が?」 声が掠れた。 前世ではどうだっただろう。思い出す。たしか、使者だけだった。セドリック本人は調印の日まで現れなかったはずだ。あの人は最初から、この婚姻に個人的な熱意など持っていなかった。だからこそ、それが普通だった。 なのに、今回は違うかもしれない? なぜ。「ええ、そう伺っておりますわ。侯爵様はお忙しい方ですのに、ありがたいことですこと」 「本







